敗戦を予言した西園寺公望、エコとBLの先駆でもあった南方熊楠。死は過去と未来をつなぐ<1940(昭和15)年 1941(昭和16)年>【宝泉薫】
【連載:死の百年史1921-2020】第16回(作家・宝泉薫)
■1941(昭和16)年
昭和天皇からも愛されたオタクがあきらめた禁忌的悦楽
南方熊楠(享年74)
オタクというのは、戦後、1980年代以降に広まった呼称だが、その定義やイメージに当てはまる人は昔からいた。この年、萎縮腎により74年の生涯を閉じた南方熊楠もそうだろう。その知識欲や収集欲は、質量ともに圧倒的で、戦前最強、あるいは史上最強のオタクかもしれない。
一応、専門は生物学で、米国や英国でも学んだものの、大学の堅苦しい空気には合わず、在野の学者としてすごした。オタクなのでこだわりが強く、しかもかんしゃく持ちなので、ときにはトラブルを起こすことも。明治の末には「神社合祀令」にともなう自然(鎮守の森)破壊への反対運動に熱中するあまり、集会に乱入して逮捕された。ただ、この運動自体はエコロジー運動の先駆けとして評価されることになる。
生物のなかでも好んだのが粘菌類で、これは生物学者でもあった昭和天皇が研究していたテーマでもあった。それゆえ、天皇は熊楠を気に入り、1929(昭和4)年には彼の住む和歌山の白浜へ行幸。熊楠の講義を聴き、粘菌標本の献上を受けるなどしている。
その33年後、再び白浜を訪れた際には亡き熊楠をしのび、こんな和歌まで披露した。
「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし 南方熊楠を思ふ」
とまあ、そこそこ満たされた人生に思える熊楠だが、研究をあきらめた学問もあった。男色、それも美少年愛だ。「〈変態〉の時代」(菅野聡美)によれば、結婚して2児の父になったものの「生来女嫌いにて」という性向であり、海外から帰国後は動植物の採集と並行して「持ち還りし変態心理学の書」に耽溺したという。
粘菌類のキノコだけでなく、別のキノコにも……と下ネタのひとつも言いたくなるところだが、その嗜好はあくまでプラトニックなもの。「男色は必ずしも肛門を犯すとか猥雑なことに限らざる」とか「社会の様子によっては大いに世益あり」といった主張もした。
また「紅夢楼主人」の名で「美少年論」という本を出そうとしたが、編集者の宮武外骨から修正を求められ、修正するくらいなら出さないという決断をしたという話も伝わっている。澁澤龍彦をして「権威によって拘束されない」「悦ばしき知恵の体得者」と言わしめた自由人をもってしても、当時はそんな時代だったのだ。
そうこうするうち、
「変態心理の自分研究ははなはだ危険なるものにて、この上続くればキ印になりきること受け合い」
という結論に至った熊楠。もし今の世の中を見たら、どう思うだろう。BLの漫画やアニメがあふれ「おっさんずラブ」のようなドラマが大ヒット。もし生まれ変わったら、その手のジャンルのオタクとしてもぜひ大活躍してほしいものだ。
文:宝泉薫(作家・芸能評論家)
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